歴史大好き

歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

戦国時代

浅井三姉妹が匿われた実宰院と昌安見久尼

浅井三姉妹が匿われた実宰院と昌安見久尼

実宰院とは、滋賀県の長浜市にある曹洞宗の寺院で、浅井長政の腹違いの姉、昌安見久尼が開いたとされる寺。織田信長軍の攻撃を受けて逃れた長政の妻、お市の方と三人の姉妹たちは、小谷城の建つ小谷山から実宰院に逃れたと伝わっています。

再興された実宰院

実宰院があるのは、長浜市平塚町149

実宰院の場所は現在の長浜市内となりますが、地図で見ると小谷城址が近くに大きく広がっており、戦火を避けて山中から麓の実宰院へ逃れたであろう当時を想像していしまいます。

実宰院の創建は、もともとは鎌倉時代以前に遡り「実才庵」という名称であったと「実宰院史跡保存会」が、実宰院前に設置した案内板には記されます。

浅井長政の腹違いの姉とされる安久姫は、仏道を志して出家しました。昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)は戒名。阿久姫の父親は浅井長政の父、浅井久政で、久政が地元の庄屋、平野左近助に頼み状を使わせて当時無住となっていた庵を再興させたとのこと。実西庵とも言われます。

後に寺には、昌安見久尼の坐像が秀吉の室となった茶々から寄進されました。上記の案内板には、三姉妹のことを村人たちは、村の行事に招いて寂しさや悲しみを分かち合ったとの伝承が記されています。

昌安見久尼という謎の多い女性

浅井長政に腹違いの姉、安久姫が居たことは史実と言えそうです。浅井亮政の侍女と伝わる母から生まれた安久姫は、浅井久政の庶子であったため、亮政の養子となりました。

それにしても昌安見久尼は謎の多い人物でした。身長が5尺8寸(176センチ)あったとか、体重も100キロ以上あったとか、そこは伝説的に言われるわけで、実際のところどういう人物だったかは分かりません。体が大きいから嫁入りを諦めたという説もあれば、出家したときは6歳だったという説も…。

実宰院と昌安見久尼については、信長の小谷城攻撃にあたっての伝承です。「お市の方と共に三姉妹を織田軍が引き取った」のではなく、4人が「逃れて実宰院に向かった」のか、それともしばらく実宰院で過ごした後に織田側に引き渡されたのかーー経緯は分かりません。
さらに言えば、実宰院に保護された時期というのは、柴田勝家が敗れ北ノ庄城が落城した後、という説もあります。この説では救い出さえたのは娘たち3人ということになります。

追記:石田三成と淀殿(茶々)はどの程度接点があったのか?

いずれにしても大柄な阿久姫は、織田軍がやってきた時に自身の法衣の中に3人を匿った、と伝えられています。

実宰院と豊臣家

ただ、小谷城からの4人の脱出も、北ノ庄城でお市の方が勝家とともに自害するのも、ドラマになると文字通りドラマチックな場面。したがって伝説は伝説で興味深いのですが、脱出の人間ドラマのほうがさらに脚光を浴びるためか、歴史ドラマでは実宰院や阿久姫はあまり登場しないような気がします。

ところで上記のように、実宰院には昌安見久尼の坐像が、茶々から寄進されました。豊臣家は、というより茶々は、自らが生き延びた場となった(と考えられる)実宰院を手厚く保護することは、十分に考えられます。茶々の気質からしても、豊臣家の当時の財力からしても。

残された資料として、1597年のものである「豊臣家奉行連署状」によると実西庵と豊臣秀吉との関わりが示されています。秀吉によって実宰院は庵料として五十石の田畑を与えられ浅井三代を祀ったとのことで、この五十石は江戸時代にも御朱印状で認められ、浅井家を祀る使命は継続されていたことが分かります。

浅井長政と織田信長の関係とは?にあるように、浅井長政の娘として生き残った3人の姉妹の一人、おごう(江)の血筋がその後も現代まで続いてきました。

実宰院も小谷城も、個人的にはまったく知らない土地ですが、ぜひ訪ねたい所。実宰院史跡保存会のような諸団体さんが、全国の津々浦々に様々な形で活動しているのも、歴史好きには嬉しいことです。

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