歴史大好き

歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

戦国時代

築山殿事件、妻が殺害されたその時家康の立場は?

築山殿事件とは徳川家康の正室であった築山殿(瀬名姫)が、1579年、織田信長の命令で息子の信康とともに殺害された事件。信長の娘の徳姫が、家康と築山殿の長男、信康と結婚し、徳姫が信康と築山殿を悪者として父の信長に訴えた末の処分でした。

築山殿事件、妻が殺害されたその時家康の立場は?

今川家の娘だった築山殿と、人質だった家康の結婚

徳川家康の奥さん、しかも正妻という重要な立場の築山殿(つきやまどの)は、生年や両親など確定できない点もある人物です。しかし、壮絶な最期が「築山殿事件」と言われるように、今川の血統と織田信長勢力との間で事件を引き起こすことになった数奇な生涯でした。

名前の「築山」とは岡崎市の地名に由来します。1562年、築山殿が家康の拠点となっていた岡崎に移ったときに、岡崎城ではなく築山の近く、城外の西岸寺に住まわされたため、築山殿と称されるようになりました。

なぜ、岡崎城に入れてもらえなかったか・・・というと、瀬名姫とも呼ばれた築山殿は、今川義元のおそらく姪(母は今川義元の伯母、または妹)という人物で、今川側の妻となります。

そもそも家康と築山殿は、家康(当時は松平元信)が今川家の人質として駿府に居た時代、1557年に結婚しました。徳川側と築山殿との対立関係は、そもそもが敵の人質となっていた松平元信(後の徳川家康)の生い立ちから生じた悲劇的な関わりとも言えます。

人質の身の元信としては、今川家の姫である瀬名姫との結婚は、その時点では不釣り合いなくらい、むしろラッキーなことと言えるし、この環境下では雑ですが家柄ランキング的に言ってしまえば、明らかに

 瀬名姫 > 家康(元信)

でありました。

松平元信(徳川家康)が人質から解放され、立場が変化した

しかし家康は、今川家の人質だった立場から、1560年の桶狭間の戦いで今川氏が敗れたことで、結婚後数年にして、解放され自由になった身でもありました。もっと言うなら、この「桶狭間の戦い」から、築山殿にとっては、生涯が困難な道へと舵を切られたとも考えられます。

ところで家康の実母である「於大の方」は、実家の水野家が織田側についたため一旦は幼い家康を置いて離縁され、しかし岡崎城に再び戻ってきた女性でこちらは織田側・・

一方で築山殿(築山御前)は、生家から今川側となり、

(姑)於大の方…織田側  ←→ (嫁)筑山殿… 今川側  

という難しい嫁姑関係となります。

これをあえて現代風に置き換えると、嫁姑の両者を仲介できるとしたら(夫)である家康のはずですが・・。しかし、人質の身分から開放された家康は、その頃に築山殿を離縁していた可能性もあります。ただし対立関係は、家康が築山殿を拒んだというより、於大の方と築山殿が合わなかったことが要因とされています。

時は前後しますが、築山殿は1559年に松平信康、1560年に亀姫を出産していました。

また築山殿は、母親の血筋の解釈次第では井伊直虎とは従姪の関係に当たります。大河ドラマで映像的に記憶に新しいのは、2017年に「おんな城主直虎」で築山殿を演じた菜々緒さんの姿です。

資料がないと言われながらも、築山殿は大変美しい人で、肌の白い女性だったと伝わっています。

織田家に挟まれた今川の嫁、築山殿

城に入れてもらえない微妙な立場だった築山殿ですが、1567年には自分の産んだ信康が、9歳と幼いながら織田信長の長女である徳姫と結婚していました。今度は、築山殿を姑という立場で見ると、

(姑)筑山殿…今川側 ←→ (嫁)徳姫… 織田側
  
という関係でした。つまり、築山殿は、自身が嫁としても姑としても織田家という大きな勢力に挟まれた苦しい立場であったと言えます。

そこで苦しい嫁の立場、苦しい姑の立場でも、もし、彼女がじっと忍ぶ「忍耐の妻」だったら波風が立たなかったか否か、そこは分かりませんが、通説によると築山殿の評価は芳しくありません。

今風に言うと「たいへん嫉妬深い人物で周りに害を及ぼすし、性格が悪くて扱いに困る」といった評価が残っています。

その通りなら、正妻という権力ある立場でいざ身近に居たら、避けたくなるような奥方かもしれません。さらに言い伝えによると、家康の子を妊娠してしまった女中を「裸で木にくくりつけた」との逸話も残っています。ちょっと怖いかも・・の女性です。

築山殿と信康が、徳姫に恨まれる

1570年になると築山殿も岡崎城で暮らすようになりました。しかし一方で家康は、この頃から浜松城へ移ります。岡崎城にて築山殿は信康夫婦との生活がありました。

ところであらためて考えると、息子の信康の妻は、なんと信長の娘です。この徳姫と築山殿が仲良しだったら、もうちょっと平和だったはずですが、徳姫のほうも性格の激しい女性だったもよう。しかも徳姫は子どもを2人産んでいますが、どちらも女児(登久姫と熊姫)でした。

そこで築山殿が、血筋を残すことを考えて、信康に側室を付けたりしたことにも徳姫は反発しました。

そのような経緯でついに1579年、徳姫は『12か条からなる訴状』を信長に送り、その結果、信長は娘の夫、信康の処刑を命じました。1559年生まれですからまだ二十歳そこそこの信康。訴状を持っていったのは酒井忠次で、この人物は織田家ではなく徳川家の家臣ながら、徳川家のことを弁明しなかったわけです。

信康の処刑に当たり、その母築山殿を、妨げにならないように先に処分したのが8月末のこと。その後、1579年の9月半ばに信康は自害させられました。

築山殿の最期については諸説あります。

岡崎城から浜松城に向かう途中の、現在の浜松市の某所で泣き叫ぶ所を殺されたとか、凛としてしたがって自害したとか、実際のところはよく分かりません。

いずれ、築山殿の首は信長に届けられました。

12か条訴状の中身は?

ところで徳姫の訴えた「12か条訴状」のなかで、築山殿はどう讒訴されているのでしょうか。

一つには、女の子しか生まれていないので夫に側室を備えたことを、徳姫は恨んでいます。

また築山殿に武田家との内通があったこと、減敬という医者と密通したことなどを訴えています。さらに築山殿は贅沢三昧な生活をしており金遣いが荒いということもーー。武田家との内通は真実なら穏やかでありませんが、それだけでなく、さらに次の点などが問題となりました。

・信康は武田勝頼と結びついて、織田と徳川を滅ぼそうとしている。

・織田と徳川を滅ぼしたら、築山殿は武田の家臣と結婚するらしい。

築山殿は武田勝頼に信長と家康を殺してほしいと依頼している。

信憑性は別としても、これらの点は信長から見たらじつに看過できない重大事項。信長の出した結果は、上記のように「信康の処刑」でした。

ところでこのような経緯で当のというかコトの中心にいるはずの、家康は何を思っていたのでしょうかーー。

自分の息子と妻が処分される・・という現代人には考えにくい限界状況ですが、涙を呑んで信長に従ったのでしょうか。

それともじつは築山殿と信康の死は、家康の企みであって信長に頼んで二人を処分してもらったという説もあります。そうだとしたら家康に同情するどころか、なんというタヌキさんだろうかという気もします。

築山殿を演じた人々

いずれにしても、多くの歴史資料において、江戸時代に徳川家を悪くは表現しないでしょう。つまり虐殺された妻は多少なりとも悪女として伝わります。

築山殿は、その描かれ方の比重は各々異なるとしても、なにせ家康の妻ですから家康を描いたドラマ、映画には必須の存在となります。

これまで演じた女優は、NHK大河ドラマだけに絞っても以下の方々です。

1983年『徳川家康』池上季実子
1992年『信長 KING OF ZIPANGU』島村佳江
2011年『江〜姫たちの戦国〜』麻乃佳世
2017年『おんな城主 直虎』菜々緒

最もクローズアップされたのは、血縁があるとされる井伊直虎と関わりがあった『おんな城主 直虎』での築山殿。菜々緒さんの強い目力も印象的でした。

付け加えて2020年の『麒麟がくる』の瀬名姫、築山殿はまだ登場していません。

以上、築山殿事件で殺された築山殿についてでした。当事者とも言えそうな家康がその時、どんな思いでいたか、想像するしかありません。しかし老獪な家康の生涯の全体像から振り返ると、この時もお腹の黒い思惑は、そっと隠していた家康だったかもしれません。

本当は愛する妻だったが、信長のもとに居て逆らえず、やむを得ない家康だったと思いたい気もします。ただ、この時代のことですから、妻の築山殿のことは置いておいても、嫡男の信康と家康の関係こそ難しかった、それが築山事件となったとも考えられます。

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