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歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

戦国時代

森蘭丸とは?信長の小姓で母の妙向尼も活躍した

森蘭丸(もりらんまる)は織田信長の「小姓」の一人。女性のように美しかったとされ、そのように描かれる蘭丸ですが、名前は「乱」すなわち森乱丸、もしくは森成利(もりなりとし)が妥当でしょう。ことさら信長の寵愛を受けたことで有名ですが、本能寺の変で信長とともに討ち死にしました。母の妙向尼が本願寺と信長の和睦で活躍したことでも知られます。

森蘭丸とは?信長の小姓で母の妙向尼も活躍した

蘭丸の家族、森家の人々

森成利(1565〜1582年)

森蘭丸(乱丸)は森可成(もりよしなり)の3男で、森可成は美濃国の金山城主でした。森成利(蘭丸)が生まれたのが1565年、信長の小姓になったのが1577年ですから、今で言えば小学六年生の男児くらいの少年を想像すると、じつに初々しい姿だったことでしょう。

亡くなったのが、本能寺の変のまさにその時。享年18、今の高校生の17、18歳ほどのうら若き青年でした。

森成利(蘭丸)は3男でしたが、森可成には6人の息子たちがいました。森可成の妻は妙向尼。

可隆:1570年に手筒山城攻撃の際に父とともに戦死
長可:1570年に父の戦死後、家督を継いで信長に仕えた
成利(蘭丸)
長隆(坊丸):本能寺で戦死
長氏(力丸):本能寺で戦死
忠政(仙千代):後に津山藩主となる

ということで、森家の長兄と父が亡くなった後、まだ15歳の次男、長可が家督を継ぎ、幼かった成利(蘭丸)と長隆(坊丸)と長氏(力丸)は信長の小姓となっていました。末の忠政は森可成の亡くなる1570年に生まれています。幼かったためと少々のアクシデントで忠政は一旦母の「えい」の元に返されており、結果として長生きして、後に森家の家督を継ぎました。

母、妙向尼が信長と石山本願寺との和睦に活躍

乱丸らの母であるえいこと妙向尼は、当時の女性として歴史に名が残っているのは、もちろん相応の役割を果たしたからです。

妙向尼(1524〜1596年)

蘭丸らの6人兄弟(他に女児もあり)の母、妙向尼は、信長と石山本願寺の戦い(石山合戦)の和睦に奔走した人物です。信長と石山本願寺が和睦した背景には、蘭丸を通して妙向尼が信長に直談判したという事項がありました。

その背景を覗いてみると、妙向尼と信長では真っ向からいわば対立関係です。

妙向尼:浄土真宗の信徒
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信長:水軍や商人らが軍事力と経済力を提供していた本願寺を、敵視していた

浄土真宗では、悪人正機説で「悪人こそまさしく阿弥陀仏の本願に救われる対象である」とされます。商人や海の民(水軍に関わる人々)は、殺生や商いをもって生活しているので従来の仏教的な考えでは悪人だから成仏できない、とされてきました。

しかし親鸞の悪人正機説で、これらの人々は、「仏の救い」を見出すことになりました。すなわち商人、職人らから熱心な本願寺の門徒が増え、本願寺には今でも名残の地名が残っている「寺内町」が築かれました。

信長にしてみれば農民からは年貢を徴収できるけども、その義務のない商人たちを従わせることが天下取りの大きな課題。そこに石山本願寺という敵が、宗教的な敵としてではなく、経済力、軍事力の掌握においての敵が大きく立ちはだかった、ということです。

「自らが信徒である母、妙向尼」と「本願寺を敵とみなす主君の信長」。

この両者に挟まれた形の森蘭丸でありましたが、いわゆる石山合戦は1580年に、無事というよりは一応、というべきか収束しました。交渉の場の実際は分かりませんが、おそらく心理的に、蘭丸、妙向尼、信長のそれぞれに、思うところも、駆け引きも、忍んだこともことも微妙にあったことでしょう。

しかし石山本願寺は1580年、明け渡された直後に焼失し、その後、本願寺が2つの勢力に別れていきますが、それは別項で。

蘭丸の最期、本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)、蘭丸が本能寺の変で亡くなったとしても、具体的には信長が本能寺でどのように亡くなったか確実なことは不明であるのと同様に、側に仕えていたとされる蘭丸も、どのように亡くなったか厳密には分かりません。しかし通説では、安田国継(天野源右衛門)に討ち取られたとされています。

安田国継は、信長に槍で傷を負わせた武者で、蘭丸の最期は「本能寺ニ森蘭丸討死之図」として絵に残っています。

この時、上記のように弟たち、4男と5男の長隆(坊丸)と長氏(力丸)も戦死しました。

森蘭丸の実態は詳細不明ながら、映画になったりキャラクターとしても注目されるのは、常に信長の傍に仕えおり、信長から特別な愛情(少年愛、衆道関係)を受けたという説もあり、物語性が増してきました。蘭丸は風呂で信長の体を洗ったり、夜も寝室を共にしていたとのことです。

ついでながら「小姓と衆道関係」というのは当時、珍しくないことでした。小姓なら深夜の有事でも主君を守って戦えるし、主君は戦場に女性を連れていけないし、男色が当然という風潮があったことも忘れてなならないでしょう。

蘭丸に関する逸話

蘭丸については逸話がいくつか残されています。

一つは、障子が閉まっていたけれど開けてまた閉めたという話。

信長がある時、隣の座敷について「障子を閉めてくるよう」蘭丸に命じました。しかし蘭丸が行ってみると実際は障子は閉まっていました。そこで蘭丸は、あえて自ら障子を開けてから、音を立てて閉めました。

信長が開いていると言ったのに、「閉まっていました」では格好がつかないので、蘭丸はあえて周囲に音を聞かせたのです。これは『鳩巣小説』に残された逸話。

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もう一つは、爪(ツメ)の数を確認したという逸話。

ある時、信長が自分の爪を切って扇子の上に乗せ、蘭丸に「捨ててくるよう」命じました。蘭丸はその通りにしようとしましたが。、隣室に行くと、爪が9個しかないことに気づいて、信長の部屋に戻ってきました。

そこで残りの爪を探したことから、乱丸の生真面目な性格が伺えます。これは『老談一言記』などに残された逸話。ことの信憑性は分かりませんが、逸話が残る人物、ということだけは確実です。

蘭丸を演じた人たち

蘭丸を演じた人の歴史も、遡ると興味深いものです。

1930年に作られた『森蘭丸』(松竹)の映画で演じたのは阪東寿之助

1955年の同じく『森蘭丸』(日活)では四代目坂田藤十郎、織田信長役は山村聡。 ここで「おたき」という信長の愛妾おふじの方の侍女と、蘭丸との愛が描かれ、本能寺で殺された蘭丸を最後に「おたき」が発見・・・となっています。

ちなみに、NHKの大河ドラマだけ見ても「信長」が登場するドラマが多いわけで、したがって森蘭丸は度々登場しました。

森乱丸(森蘭丸)役

1973年:『国盗り物語』では中島久之
1983年:『徳川家康』では土家歩
1992年:『信長 KING OF ZIPANGU』では石野太呂字
1996年:『秀吉』では松岡昌宏
2002年:『利家とまつ』ではウエンツ瑛士
2006年:『功名が辻』では渡辺大
2011年:『江〜姫たちの戦国』では瀬戸康史

ストーリー展開への係わり度合いは別としても、ドラマ的には外せない人物のようです。

ところで、小姓という関係で有名なのは、信長と蘭丸の他に、以下のような関係が有名です。

織田信長  ⇒前田利家
豊臣秀吉  ⇒石田三成
上杉景勝  ⇒直江兼続

関係性は各々異なると思われますが、自分の主君を命がけで守る熱血かつ有能秘書のような存在でした。

ちなみに2020年の『麒麟がくる』での蘭丸役はまだ分かりません。現在、放映がお休み中のために参照される『国盗り物語』は、何かと刺激的です。

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