歴史大好き

歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

幕末

お登勢(寺田屋の女将)と龍馬

お登勢さんは、京都の寺田屋の女将で、寺田屋事件で知られる寺田屋を仕切った女性です。その生涯は詳しく知られているわけではありません。しかし当時としては、龍馬が襲われた寺田屋事件の現場の主であったことからも、注目される女性となりました。

お登勢

寺田屋の女将になったお登勢

お登勢(1829年〜1877年)

お登勢の生涯で分かっていることは、大津で旅館の家に次女として生まれたこと。京都の寺田屋に嫁いで18歳で寺田屋伊助の妻となったこと。子どもは3人いて、若くして亡くなった夫に代わって寺田屋を切り盛りしたことです。

結婚の経緯は分かりませんが、家業からして子どもの頃から宿屋経験のあるお登勢が、寺田屋に嫁いで相応の働きをしてくれると、期待されていたことでしょう。

寺田屋の創業は1597年に遡ります。当初は山城国の百姓だった「伊助」が船宿として始めました。地の利としては、淀川が琵琶湖から大阪湾に注ぐなかでの要所であり、寺田屋は時代とともに船宿として繁栄していきました。お登勢が嫁いだ時代には、この宿は6代目寺田屋伊助の代でした。

しかしこの6代目の伊助は働き者ではなく、酒に溺れていた様子。35歳で亡くなってしまいます。しかし幕末の政情不安定な京都にてお登勢は、薩摩藩の藩士など客の絶えない寺田屋を見事に切り盛りしていました。

寺田屋事件で龍馬が襲われた1866年には、生年が1829年だとしたらお登勢は37歳前後。その10年後に亡くなっています。

1回目の寺田屋事件とお登勢

事件の現場となった寺田屋は、上記のようにそもそも薩摩藩の定宿となっていました。その薩摩藩の藩士同士が京の宿で争い、結果として薩摩藩の尊皇派が排除された事件が1862年の寺田屋事件(寺田屋騒動)。

排除した権力者とは島津久光で、久光は当時の薩摩藩主、島津茂久の実父であり、地元では「国父」として薩摩藩の実権を握る人物でした。久光は当時、薩摩の藩兵を1000人以上も率いて京に上りました。

この寺田屋事件によってで久光は勢いづき、さらに江戸に向かって行き、文久の改革を敢行。その結果として時代は公武合体派(薩摩藩と会津藩)と、尊王攘夷派(長州藩と過激派志士など)との争いが一層激しくなります。

寺田屋事件の只中、お登勢は当時3歳だった次女をかまどに隠しました。寺田屋の2階には、たくさんの薩摩藩士が過ごしており、騒動の只中に気が付かなかった者もいたそうです。

騒動のさなか、お登勢は帳場を守ったとされます。詳細は想像するしかありませんが、斬り合う凄惨なその場をしのいで、お登勢は寺田屋を守り抜いたことになります。

龍馬の襲われた寺田屋事件とお登勢

2回目の寺田屋事件は、上記のように1866年のことでした。

薩長同盟が結ばれたその直後の時期となる1月23日の深夜、寺田屋が30人ほどの伏見奉行から遣わされた取り方に包囲されたことに気づいた「おりょう」(お龍)は、その時入浴中でした。しかし裸のまま2階に駆け上がって、異変を坂本龍馬に伝えました。

なぜ、龍馬の妻のおりょうが寺田屋にいたかというと、中居として働いていたからです。

その時、坂本龍馬三吉慎蔵は必死に防戦し、スキを狙っておりょうが漬物槽を動かし、現れた隠れ裏木戸を使うことで、二人はなんとか寺田屋から脱出することができました。

寺田屋の主であったお登勢が、この場でどんな様子だったかは分かりません。しかし、寺田屋は現在も昔ながらの建物が残っており、資料館として訪れる観光客も多数います。

(建物が当時のものか、その後焼けて建て替えたかは、諸説あり真相はなんとも言えません。)

なお、個人的には意外なことでしたが、寺田屋は現在も宿泊が可能です。資料館の見学は400円程度、宿泊は素泊まりで6500円、朝食付きで7000円という情報があります。

しかし最新状態と予約可能か否かは、その都度問い合わせたほうが良さそうです。

寺田屋:京都市伏見区南浜町263(電話:075-622-0243 )

旅館として寺田屋には駐車場もあるとの情報もありますが、京都の街なかのことなので、電車利用のほうが無難かもしれません。

坂本龍馬(1836年〜1867年)が亡くなったのは、ご存知、1867年11月の近江屋事件にてーー。寺田屋事件から2年弱のことでした。龍馬の波乱の生涯からすると、常に命の危険と隣り合わせだったには違いないとしても、壮絶な最期でした。

寺田屋での襲撃で九死に一生を得たとはいえ、龍馬の生涯からするとやはり無念な結末。

ただ、この短い期間に龍馬は「日本初の新婚旅行」と後世に言われる薩摩での潜伏生活をお龍とともに送っています。薩摩行きを世話したのが西郷隆盛でした。 お龍(楢崎龍)の晩年と坂本龍馬

寺田屋跡

近江屋跡

お登勢と龍馬は、もちろん夫婦等の関係とは異なりますが、龍馬が愚痴をこぼすような率直な手紙を送ったことでも知られています。お登勢が、龍馬を支えた人物の一人であることは、間違いないでしょう。

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