歴史大好き

歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

戦国時代

大谷吉継と石田三成

大谷吉継と石田三成の関係はいかなるものだったかーー

石田三成は関ヶ原の戦いで西軍の代表的な武将、そして敗軍の将として処刑されたことで知られています。一方で、ともに関ヶ原の戦いで敗れた武将、しかも異彩を放つ存在感のある戦国武将として大谷吉継もまた注目したい戦国大名でした。

大谷吉継と石田三成

関ヶ原の戦いで敗れた二人、大谷吉継と石田三成

【石田三成】(いしだみつなり)(1560〜1600年)
【大谷吉継】(おおたによしつぐ)(1559〜1600年)

二人はともに、最期は関ヶ原の戦いで敗れ、亡くなります。石田三成は西軍の首謀者で(総大将は毛利輝元)、敗戦後に処刑され、一方で大谷吉継は関ヶ原の戦いでは、失明した身で輿に乗って軍の指揮を執ったのちに自刃しました。

大谷吉継は、越前敦賀5万石の城主でした。当時はらい病と呼ばれていたハンセン病と推定される病気があり、顔を白い布で覆っていました。吉継は武将としての器は大きく、特に秀吉に高く評価されていました。豊臣秀吉も大谷のことを「100万の大軍を預けて軍配させてみたい」と評価したとされます。

生涯の友情を保った石田三成は、大谷吉継のことを、加藤清正や福島正則をしのぐ、はるか上の武将と評価していました。

一方で石田三成はというと、言うまでもなく豊臣政権で五奉行の一人として活躍した人物で、秀吉亡き後には家康と対立し「関ヶ原の戦い」で東軍の家康たちの大軍に挑んで敗れました。

ご存知の「関が原の戦い」の当時、家康が250万国の領主で、対する石田三成は石高で言えばわずか20万石でした。よく知られているように石田三成は秀吉から寵愛されたあまり、他の武将から疎まれていました。有能さを自覚する石田三成は、秀吉亡き後の政権運営において、物腰が横柄であると批判されがちーー。

そんな石田三成に人徳の不足を指摘し、賢く助言しながら友情を保ったのが大谷吉継でした。

負けると覚悟して戦った二人

大谷吉継と石田三成は関が原において最後は、負けると覚悟したであろう時間も経て、なお戦って、果てたわけです。しかし関ヶ原の戦いは、周知の通り勢力関係は流動的で、小早川秀秋の優柔不断と寝返りは、大河ドラマ等でも象徴的に描かれるとことです。

大谷吉継は単純に西軍だったと言うよりは、家康との接点もありました。政局を的確に把握して、この戦いが始まると家康らに有利であって、三成の計画は無謀であることを、石田三成に諌めようとしました。

しかし、大谷吉継は、結局は義を重んじる三成の姿勢に感化されました。残りの少ない余生を徳川家康について過ごすより、友である石田三成のために・・・という思いもあったことでしょう。ついに関が原に突入します。

大河ドラマで『真田丸』が放映されたのは2015年のことで、大谷吉継を演じたのは片岡愛之助さんでした。

2016年の『軍師官兵衛』では村上新悟さんでした。

回し飲みの逸話

大谷吉継と石田三成との間に伝わる逸話です。
忌み嫌われてた癩(らい)病を患っていた吉継は、あるとき他の武将たちと共に茶会に招かれました。当時、吉継の病気は見た目にも明らかだった様子で、茶会で、茶を一口飲んでは次の者へ回す「回し飲み」においても、吉継が呑んだ後の湯呑は、皆、避けて飲むふりをしただけでした。

しかし、三成だけは滴り落ちた膿ごと、その茶を飲み干したと伝えられます。石田三成は、そんな場で吉継の面子を潰すようなことは、決してしない「義」を重んじる人間だったということです。

吉継は、その茶会でもちろん屈辱を味わい帰ってからも悔し涙を流したとされますが、だからこそ石田三成の心意気に感動しました。二人の友情が築かれた一件でした。辛い傷を負った者にとって、普通に扱ってくれたことが、大谷吉継に響いたということでしょう。

義の男、石田三成は秀吉に単に盲従していたわけでもありません。秀吉からキリスト教徒弾圧を命じられても、可能な限り処刑の数を減らそうとした場面もありました。

また豊臣秀次にきつく当たった秀吉に対して、秀次を擁護し、逃げそうとしたことも知られています。さらに領主として、領民から慕われ、あの時代に可能な限りの善政を試みたこと知られています。

朝鮮半島への出兵に関しては、石田三成は引き上げた他の大名たちを九州で出迎えた立場ですが、半島で苦労してきた武将たちからは、強い反発を受けました。秀吉という権力をバックにして、それをカサにした傲慢な人間と受け止められ、単純にいうとおおよそ「嫌われた」人物の石田三成だったと言えそうです。

人間はもちろん、一面性だけではありません。多くの武将たちに嫌われた石田三成でしたが、大谷吉継にとっては「義の男」が前面にでたということでしょう。

ちなみに大谷吉継は病に対して、ずっと放置したわけではありません。1594年には草津温泉に湯治に赴いたりしています。1598年には豊臣秀頼の中納言叙任の祝いにも何とか参列し、1599年には神龍院梵舜とともに女能を見物するなど、体調も一進一退だったことが伺えます。

そんな石田三成ですが、一方で茶々(淀殿)との間には、じつは秀頼の父は・・というような極端なまでの説もありました。父が三成だったとはさすがに考えにくいのですが、興味深いテーマです。⇒ 石田三成と淀殿(茶々)はどの程度接点があったのか?

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