歴史大好き

歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

戦国時代

秀吉の「中国大返し」は本当に可能だった?

本能寺の変で信長が討たれた直後、秀吉が軍を率いて備中高松城から山崎まで、瞬く間に引き返しました。中国大返しと呼ばれることになったこの大移動は実際、どれくらい現実的に可能なのでしょうか。さらに大返しの前に、秀吉は遠く離れた京での異変をどうやって知ったのでしょう。その時系列は?

どんな道? 現代の203キロで考えてみた

中国大返しはおよそ230キロの旅と言われます。いきなりですが、どれくらいの行程になるか、現代の地図で見るのは、少々無理があるのですがあえて地図で見てみましょう。

下の地図は、現在の土地ながら備中高松城のあった岡山市から山城山崎(乙訓郡大山崎町)までを、グーグルマップで強引に「歩いた」としたらの行程になります。

秀吉の中国大返しは本当に可能だった?

秀吉が当時、姫路城などを経由した通った道はある程度分かっていますので、実際は上の図で示されているような「203km」とは異なります。しかし230キロと言われてきた道は、意外と、現在の様子とあまり変わらないことも分かります。

そして、淡々とグーグルさんの指示に従ってひたすら歩くとしたら、42時間と表示されています。

正直、「あれっ?意外と速い・・」と思わないでもないのですがーー。そしてこの計算ですと、人間が時速4.8キロくらいで歩いています。
仮に一日のうち6時間歩くとして一日の走行距離は・・ 4.8✕6= 28.8キロ

とすると、必要な日数は、28.8/203=  およそ7日間 

つまりかなり乱暴な計算ですが、現代人が仮にグーグルマップに従って、この行程を一日に6時間、歩いたとしたら、およそ7日間で到着という数字になります。

一日に8時間でもなく10時間でもなく「6時間」というのは、わりと現実的では?

当時、馬上の人も、徒歩の人もあったであろうこと、重い武具を身に着けていたであろうこと、さらに道路の状況、履いている草鞋の状態など、考えると・・カオスです。途中で姫路城で過ごした時間もあるし、こんな計算にどれほど意味があるか疑問ながらーー。

ともかく物理的に不可能ではなさそうです。

秀吉はどうやって「本能寺の変」を知ったのか

ご存知のように秀吉は、現在の岡山市北区となる備中高松城を攻撃中でした。数で圧倒的に勝る秀吉軍が、清水宗治の立てこもる高松城を相手に苦戦していたこと、水攻めの作戦に出たこと、信長の死の知らせを受けて、毛利側にその事実を隠し安国寺恵瓊を介して和睦し、一気に山城山崎に引き返したことは、よく知られています。

月岡芳年画「高松城水攻築堤の図」

それにしても時系列はどうなっているのでしょう。

明智光秀が本能寺を襲って、信長が自刃したのが6月2日の早朝。
秀吉が、その事実を知らされたのが6月3日の夜から4日の未明にかけて、とされています。

その根拠となる資料等は諸説あるとして・・
そして秀吉が知り得た経緯も、密使を捕まえたとか、信長側の使者がいたとか、伝えたのが「誰」だったか諸々あるとして・・

ここでは時系列にのみ注目してみます。上記の230キロ(203キロ)の話にこだわると、その逆の行程を、その「誰か」が走ったわけです。仮に2日の早朝(すぐ?)から3日深夜までの時間を、大雑把に2日朝6時から3日深夜0時までの総計42時間だとして・・・。

42時間で230キロを走ったとしたら、時速5.5キロくらいなので、ここでも物理的に不可能ではなさそう。ただし一人の人間が42時間連続マラソンではないでしょうから、複数の飛脚(?)というのか、特別任務を負った専門職の人が走ったのでしょう。

『太閤記』によると秀吉側が、明智光秀が毛利氏に送った密使を、捕縛したとされます。

怪しい使者と密書

ちなみにアマゾンプライムで現在放映中の『まんが日本史』全52巻のなかの「エピソード36」では、まさにその場面で、「殿、毛利へ向かう怪しい使者を捉えました。密書を持っております」というセリフが流れます。密書を開いて読んだ秀吉が青ざめて震えます。

「毛利へ向かう道はネズミ一匹とおしてはならん!」
ということで箝口令が敷かれました。

まんが日本史 (アマゾンプライムですべて視聴できます)

『まんが日本史』では6月4日に清水宗治が自刃し、6月6日秀吉は軍を率いて京を目指したとなっています。馬に乗って走る秀吉と、疲れ果てながら走る歩兵たちと・・

風雨をついて、昼夜休みなく走ったということで、まずは姫路城に入り、金銀兵糧を皆に分け与えました。そこで皆の士気を高めて6月12日、わずか10日後には今の大阪の富田に陣を張ったと・・ナレーションしています。

姫路、兵庫を経てわずか10日後には、大阪の富田まで到着したとは、明智光秀も驚くばかりだったでしょう。

明智光秀に協力する者が少なかったこともあり、秀吉の果敢な迅速な行動もあり、さらに毛利側から秀吉を追撃しなかったこともあり、ともかくも山崎の戦いで光秀は敗れることになります。

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