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幕末

岡田以蔵は「人斬り」だが実像は?

岡田以蔵

岡田以蔵は「人斬り以蔵」の名で知られています。身分は下級武士の「郷士」であり、名が残っているのは、まさに「人斬り」という幕末ならではの役割。捕らえられてからの以蔵の自白が土佐勤王党を窮地に陥らせたことでも知られます。

また無名の岡田以蔵にとって、先輩にあたる武市半平太を慕い、武市に随伴して学んだり江戸に上ったり、さらに武市の土佐勤王党の一人として活動したからこそ最後は獄に繋がれて打首となり、歴史にも名を残すことになりました。

岡田以蔵の生まれと育ち

岡田以蔵(おかだいぞう)(1838〜1865年)

生まれは、現在の高知県南国市、当時の土佐国香美郡岩村で、1838年2月に土地の郷士であった父、岡田義平の長男として生まれました。

父が1848年に、外国船に対する海岸防備に従事したのが契機で、以蔵も現在の高知市内に移住。高知で武市半平太に師事しながら剣術を学び、安政3年の1856年には江戸に上京しています。生年から計算すると18歳前後ということになります。
その後、豊後岡藩で剣道を学んだ時期を経て、1861年に再び江戸に出た折に、その年結成された土佐勤王党に参加。1862年には京に上り、天誅と称して、井上佐市郎や、京都町奉行の役人たちを暗殺する集団制裁の主力となっていきました。

すでに10年前になりますが、2010年のNHKの大河ドラマ『龍馬伝』では、岡田以蔵が、ただの粗野な、あるい無学下品な少年としてでなく、佐藤健の演じる微妙な表情をもつ青年として描かれました。

大河ドラマの中の岡田以蔵は、武市半平太にことさら目を掛けられ、愛され、「お前にだけ打ち明けるが・・」といった個人的な言葉ももらって、次第に「自分には自分にしかできない使命がある」と目覚めていく様子が描かれました。

『龍馬伝』では荒らくれた、あるいは豪胆な人物ではなく、ひ弱な傷つきやすい青年の以蔵が浮き彫りされていました。余談ですが佐藤健のその後の活躍は目覚ましく、2020年のドラマ『恋は続くよどこまでも』等は、比較すること自体に無理があるものの、もはや少年の面影ではなく、十分に成熟している一人の俳優の姿をも感慨深く感じられます。

いずれにしても、岡田以蔵は、かつては剣の腕以外はことさら特筆されることもなく、拷問によってあっさり自白してしまった少年といった描かれ方でした。

「人斬りの以蔵」の史実としておよそ言われていることは、教養のない粗野な人物で、貧民層の出身であり、武市半平太も以蔵をあまり快く思っていなかったということ。また、以蔵が捕縛されて土佐に戻ってから、以蔵が安易に自白することを獄中の武市半平太は恐れたため、以蔵に毒を盛ろうとしたとも言われます。

京で「人斬り以蔵」と呼ばれる

後世に人斬りと呼ばれ、幕末の四大人斬りの一人に数えられる岡田以蔵ですが、それは振り返っての話で、当時はその時代のヒーロー、と言っては語弊があるかもしれませんが、「天誅」が正義であり、それを実行する名人であったとも言えます。

上記のように、天誅で殺害した代表的な人物に井上佐市郎がいます。

井上佐市郎は、土佐藩下目付で、1862年に起きた吉田東洋暗殺事件を捜査していました。吉田東洋暗殺の首謀者は武市半平太で、武市の指示で土佐勤王党の那須信吾らが吉田を暗殺。後に土佐勤王党のメンバーは土佐藩で苛烈な追求と拷問を受けることになります。

また、京都町奉行の一人で、越後出身の本間精一郎の殺害にも岡田以蔵は関わっています。本間の主張は勤王の思想は同じでも土佐藩と利害の反する関係にありました。

以蔵とその仲間たちは、暗殺行為を「天誅」と呼び、誇りを持ってくり返し、生活は羽振りの良い毎日だったと伝えられます。しかし、幕末の動乱は、その事態を長くは維持させませんでした。

土佐勤王党が弾圧され、以蔵も拷問のうえ処刑される

京都の情勢が変わったのは1863年の「八月十八日の政変」でした。長州藩が主導権を握って、倒幕運動を行っていたわけですが、いよいよ長州藩と、会津藩+薩摩藩の勢力が対立し、「八月十八日の政変」にて長州は京を追われる立場となりました。

すなわち長州と結びつきのあった武市半平太と土佐勤王党は、「八月十八日の政変」によって土佐藩のなかで立場を弱めました。さらに、土佐藩を実質的に握っていた山内容堂は、長州が都を去ったことにより態度を変え、勤王党を弾圧するようになりました。

さらに吉田東洋の弟子、後藤象二郎が土佐藩の藩政の中心に抜擢されたことにより、勤王党の者たちは投獄され、拷問されたうえ、吉田東洋暗殺や京での諸々の天誅の自白を迫られることになりました。

以蔵は1864年に京にて「商家への押し借りの科」ということで捕らえられ、土佐に移送。以蔵を捕まえることは後藤象二郎らにとって当面の大きな目標だったはずです。その前に以蔵は高杉晋作のもとで居候になったり、一時は坂本龍馬の紹介で勝海舟の用心棒の役も与えられましたが、長続きしませんでした。

よく言われるように岡田以蔵は「女も耐えたような拷問に泣き喚いた」とされています。拷問に屈した以蔵が自分の罪状を自白したばかりでなく、ともに天誅に関わった同志の名を明らかにしたことで、土佐勤王党は、以蔵がさらに都合の悪いことを自白するのではないかと、恐れることになります。

したがって獄中でも以蔵を毒殺する計画も持ち上がるものの、諸々の状況から実行には至らず、1865年の5月11日(旧暦)に、岡田以蔵は打首によってこの世を去りました。

同じ日の夜に武市半平太は切腹を命じられ、三文字割腹の法で腹を三度かっさばき、介錯人に心臓を突かせて絶命。この場面を先ほどの『龍馬伝』では大森南朋が好演しました。

以蔵の辞世の歌ーー。
「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき 」

以蔵はいずれにしても、以前は女々しく自白した等の印象が強く持たれてきて、墓地も寂しい所にありますが、近年(ドラマ以降と断言しては語弊があるかもしれませんが)、幕末の志士を供養する対象の一人として、あらためてスポットライトを浴びたという面もある、と言って良さそうです。

さて、岡田以蔵は人斬りと言われてきたけれど、実像はどうか・・というテーマですが、「女性でも耐えられる拷問に屈した」というような表現は、時代が違うとはいえ、そもそも理不尽な話ではあります。そして、その印象が後世まで続いたわけです。

具体的には真山青果の『『人斬り以蔵』(1958年)、司馬遼太郎の『人斬り以蔵』(1964年)によって作られてきた以蔵の姿もありました。いずれにしても小説でありフィクションですが、殊に司馬遼太郎作品の影響は大きかったと言えます。

一方でテレビドラマの取扱でイメージが変化したのが大河ドラマ『龍馬伝でした。人気俳優の佐藤健さんの演技で、岡田以蔵の印象が少なからず変わったのも確か。土佐の志士として慰霊祭の対象となってきました。

歴史上の出来事は究明によって容易に変わるものでないけれど、その人物の心象は変化ーー。事件の当時、単純に反逆者に位置づけられても当地では守護神のように崇められ、実際に人々の救いとなってきたのはは、平将門などは一例に過ぎないと思われますが、じつに多数ありそうです。岡田以蔵の実像はなかなか分かりませんが、坂本龍馬武市瑞山と接してあの時代の歴史のうねりに加担していたことだけは確かなので、どこか活き活きとした表情も想像してしまいます。

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