歴史大好き

歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

戦国時代

お市の方、血筋を今に残した信長の妹

信長の妹、お市の方は、戦国の世で浅井長政の妻となって長政自害の時に救い出され、本能寺の変、清須会議を経て柴田勝家の妻となり、勝家とともに自害という劇的な生涯を送りました。その子孫は現在の皇室にまで繋がっています。

お市の方、血筋を今に残した信長の妹

お市の方とは

お市の方は、1547年頃に生まれた織田信長の妹とされます。「される」というのは妙ですが、1583年に夫となった柴田勝家とともに北の庄城で自害したことから、およその逆算で1547年に生まれたのであろうとされます。

お市の方(1547〜1583年)市姫、於市、小谷の方など

信長の妹とされる、の件についても親族であることは確かながら、「妹である」「従妹である」等の説があります。

お市の方について確かなことは浅井長政に嫁いで3人の娘が生まれ、小谷城が攻撃され長政が自害したあと、さらに本能寺の変のあとに清須会議の決定で柴田勝家に嫁ぎ、しかし、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れた時はともに自害して果てた、ということ。しかし確かなことといっても、茶々が長政の娘であったかは、異説もあります。

お市の方の両親は、

父:織田信秀
母:土田御前

ということで、この説ではお市の方は、両親を信長と同じくする同腹の兄妹となります。

ちなみに同じく母を土田御前とする同母弟の織田信行(信勝のぶかつ)は、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』のなかでは、信長(染谷将太)によって殺されたところ。信勝を演じたのは木村了で、母の土田御前(檀れい)の嘆きも一入でした。

余談ですが、『麒麟がくる』のなかでお市の方のキャストは、まだ発表されていません。柴田勝家は安藤政信さんが決まっているのですが(2020年6月初現在)ーー。さらに、浅井長政も決まっていません。余計なお世話ながら物語は着々と進んでいるのに(?!)大丈夫でしょうか、などと思ってしまいます。2020年6月に一旦、放映が中止されるし、やむを得ない状況ではあります。

浅井長政の妻、お市

浅井長政にお市の方が輿入れしたのは、1568年ころとされます。上記の生年から考えると、単純に20歳ころ。1561年とも63年とも諸説は限りないわけですが。

1568年だとすると、当時の20歳での結婚は遅かった(!)ので、他の所に一度嫁いでいたという説もあるわけで、そもそも生年の別説もあるということになります。いずれにしても浅井長政の継室となり、小谷城にて3人の娘を儲けたことになります。

長政とお市の方の結婚で同盟関係にあるはずの両家なのに、浅井側に相談もなく、一方的に信長が越前の朝倉義景を攻めたことで、大きなヒビが入り、やがて浅井家・織田家という関係は難しくなっていきました。

このあたり、なぜ、信長は浅井長政を無視したのか、については浅井長政と織田信長の関係とは?をご参照ください。

1570年の「姉川の戦い」で浅井・朝倉の連合軍が敗れ、1573年に「一乗谷城の戦い」で朝倉氏が滅亡し、1573年9月、浅井長政は小谷城にて自害。お市の方は、信長側に引き取られるにあたり、夫婦仲が良かったとされる長政に促されるようにして小谷城を出たことでしょう。

小谷城を出てからは、お市は3人の娘たちとともに、清洲城にてお市の方の別の兄である織田信包(のぶかげ)に手厚く守られながら過ごしたとされてきました。
「きました」というのは、別説がクローズアップされているからです。信包ではなく、信長の叔父で守山城主の織田信次によって庇護されたとの説が近年、有力とされています。ただし織田信次は1574年に戦死するので、この場合、その後は4人とも信長の岐阜城へ移ったことでしょう。

いずれにしても浅井三姉妹と呼ばれることになる娘たちとお市の方との背後には信長という強力なバックアップがあったことは確か。

柴田勝家の妻

小谷の方とも呼ばれたお市の方が、小谷城を出てから9年後の1582年に本能寺の変が起き、信長が亡くなります。それまでの期間、上記のようにいずれにしても信長側の親族の庇護を受けて4人は、生活の心配もなく過ごしたはずです。

しかし信長亡き後、ご存知のように清州会議がその年、1582年に開かれました。織田家の後継者問題で、後継者そのものは当時3歳の三法師と決定し、三法師の叔父である織田信孝と織田信雄が後見人となる形が決定。

ただし清州会議(清須会議)の経緯についても異論があります。後継者を決めるために紛糾したのではなく、三法師になることはすでに決まっており、後見人のあり方を巡っての議論であったとか・・。しかし何れにしても秀吉は、天下をしだいに我が方に向けていきます。

ただしその前に、清須会議を巡っては秀吉が我が意を通したけれど、柴田勝家は本当は織田信孝オシでありながら、前後左右を考え合わせて妥協した(と大筋で解釈される)秀吉と勝家の関係があります。

勝家は、なぜ妥協できたのか? 

それはお市の方と再婚できた、いや再婚することが決まっていたからとされます。お市の方が戦国の、世にも美しい女性といういかにもドラマのような要因もありますが、じつのところ「信長の妹」ですし、3人の娘たちもまた、織田家の血筋を引く「妻」となれる貴重な存在。その4人をいわば引き受ける形の柴田勝家のほうが歩が良かったのかもしれません。

柴田勝家とお市の方、60代と30代(?)の結婚!

清洲会議の結果に勝家の不満が高じないように秀吉が動いた・・とは、しばし指摘される点です。しかし下世話な話、美しいお市の方に、秀吉は憧れの情を抱いても不思議はなく、それ故とは言わないまでも、後日、秀吉はお市の方の娘、茶々を側室とする日がやってきます。

いずれにしても1582年、お市の方は柴田勝家と再婚し、勝家の正妻となりました。しかし早々の翌年1583年には、賤ヶ岳の戦いにて柴田勝家は秀吉に敗れ、この時はお市の方は脱出することなく、勝家とともに自害しました。

↑こちらは三谷幸喜さんの喜劇風の清須会議・・

お市の方は、自害でなく娘たちとともに生き延びる道はなかったのでしょうか? 指摘されるのは、お市が秀吉を嫌悪していたから、という説。たしかにお市の方が、女にだらしないと言われる秀吉を好むとは思えませんが、やむを得ず、娘たちのことは秀吉に渡しました。

しかも秀吉に娘たちの今後を依頼する書状を出したと言われます。忌み嫌っていたとされる秀吉に・・娘のためになら、己の死を前にして自分の好き嫌いという感情を超えて、手紙を託すというできる限りのことをした毅然とした姿が想像されます。

自害を選んだのは、二度も夫の元を去るのは嫌だ、というのもまあ頷けますが、本人の談が残っているわけでなく、真意は到底分かりません。

ただ、辞世の句は以下になります。

「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」

辞世の句とはどこまで真実なのかーーを言ってはいけない話ながら、ほととぎすに別れを急かされたかのように、去っていったお市の方でした。

柴田勝家がどんな気持ちでお市の方を迎え、どんな心境でともに去ったかも興味深いテーマ。

お市の方の子孫と演じた女性たち

度々触れているように、お市の方の娘たちが浅井三姉妹と言われる茶々、初、江(ごう)の3人です。この中で江は、浅井長政と織田信長の関係とは?にあるように、現代の皇室につながる血筋を残すことになります。

すなわち、江と秀忠との間の娘、和子が後水尾天皇に嫁ぎました。江と豊臣秀勝との間に生まれた完子との関わりから、大正天皇の貞明皇后(節子)に連なることになりますし、さらに秀忠との娘、勝姫の縁からも貞明皇后に連なるということが分かっています。

江の子孫が現代に繋がっているということは、浅井家は絶えたけれど繋がっているとも言えるし、お市の方という織田家の一員のゆえに、織田家の血筋にも思いを馳せたくなります。

ドラマチックで美しいお市の方は、小説に映画に描かれてきましたし、他の作品でもお市の方が出てくる場面は数知れません。NHK大河ドラマだけをピックアップしても以下になります。

『太閤記』 (1965年・岸惠子)
『国盗り物語』 (1973年・松原智恵子
『黄金の日日』 (1978年・小林かおり)
『おんな太閤記』 (1981年・夏目雅子)
『徳川家康』 (1983年・眞野あずさ)
『春日局』 (1989年・高林由紀子)
『秀吉』 (1996年・頼近美津子)
『功名が辻』 (2006年・大地真央)
『江〜姫たちの戦国〜』 (2011年・鈴木保奈美
『軍師官兵衛』 (2014年・内田恭子)

今更ですが、NHKの大河ドラマが如何に多く、戦国時代を描いているかにも感心。以上、戦国の数奇な運命を辿ったお市の方の生涯とその子孫についてでした。

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