歴史大好き

歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

戦国時代

柴田勝家とお市の方の最期とは?

柴田勝家と妻のお市の方は賤ヶ岳の合戦後、北の庄城も取り囲まれ、夜には酒宴を催し、娘たち浅井三姉妹を秀吉のもとに送り出し、二人は自害して果てました。もはや城からの脱出を拒み、勝家と死をともにしたお市の方の最期が語り継がれています。勝家はお市の方を殺したあと切腹し、城は焼け落としました。

勝家とお市の方の最期とは?

賤ヶ岳の合戦場から引き揚げた柴田勝家

勝家とお市の方の最期、二人が自害したのは1583年4月24日でした。
勝家は賤ヶ岳の合戦場から、北ノ庄城へ逃げ帰っておりましたが秀吉軍が追撃し、23日には本丸まで総攻撃されてしまいます。

賤ヶ岳の戦いにても秀吉は美濃大返しをやってのけた等、秀吉軍は圧倒的に多勢となり、23日には北ノ庄城は秀吉軍に包囲されました。もはや形勢の逆転を見込めるはずもなく、勝家は翌日の自害に追い込まれます。

勝家の最期も壮絶でしたが、何かと人物の「凄さ」が語り継がれているのは以下の点。

 ・身内を斬ったあと切腹し、自らの五臓六腑を投げつけたこと
 ・家臣たちに、逃げたい者は逃げてよいと勧めたこと
 ・せめて最後は…と皆で宴会を催し、踊り歌ったこと
 ・それでもお市の方に再度、逃げることを勧めたこと
 ・天守閣ごと爆発させて自らの首が渡らないようにしたこと

浅井三姉妹の茶々・初・江は宴会が終わった後に城を出たといわれています。さすがに勝家とお市の方の最期とされる明け方ではないでしょうけれど。この時にお市の方は、秀吉に直筆の手紙を持たせたとされています。

お市の方は勧められても城に留まった

秀吉の祐筆、大村由己(おおむらゆうこ)による『柴田合戦記』の記述では、前日の酒宴が以下のように記されています。すなわちお市の方に対して勝家は、城を出ることを勧めています。

「御身(おんみ)は信長公の御妹なれば出(いで)させ給へ」

しかし、お市の方は次のように言って、城から出ることを拒否しました。

「去る秋の終わり、岐阜よりまいり、斯(か)くみえぬる事も前世の宿業、今更驚くべきに非ず、ここを出で去らん事、思いもよらず候」

お市の方の言葉通り、岐阜から北ノ庄城に移ってきたのはまだ前年の秋のこと。もはや自らの宿命との諦念だったようです。

なお、『柴田合戦記』の記述では、二人は「五重の天守閣に火をつけ、夫婦共に最期を迎えた」ということ。さらに同書によると、その前に娘たち3人は一つの輿に乗せられ、その娘たちをお市の方は北ノ庄城三の丸まで見送ったそうです。

渓心院という当時の侍女が残した文によると、お市の方の姿はじつに美しく、年のころ22、23歳には見えたとのこと。お市の方が美しい女性だったという伝説の元となったと言えそうです。

二人は、柴田勝家とお市の方、60代と30代(?)の結婚!にあるように、俗に言うと年の離れた夫婦でありました。物語的には勝家がお市の方を斬ってから切腹する(とされている)場面は、じつに見せ場となることでしょう。

「二人が自決」というと大雑把な言い方ですが、諸々の書物からの伝承とはいえ、年齢の行った夫が、妻など自ら身内のことは一刺しにして息を引き取らせた後に切腹していくのは、鬼の武将と言われただけのことはある見事な勇姿でしょう。

想像してみれば、秀吉にとってはお市の方まで自決したのは、ショックなことだったでしょう。ここでも小谷城の時と同様に、娘たちと共に脱出してくれることを期待したと思われますがーー。

壮絶すぎる勝家の最期

■お市の方の辞世の句
さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな

■勝家の辞世の句
夏の夜の、夢路はかなきあとの名を雲居にあげよ、山ほととぎす

勝家とお市の方のお墓があるのは福井市の西光寺。

柴田神社ともたいへん近い距離ですね。

ちなみに、勝家は羽柴軍に向かって「この勝家の腹の斬りざまを見て、後の参考とするがよい!」と叫んだそうです。

そのうえでお市の方を殺し、一族を殺しさらに最後に自らの腹を斬ったという壮絶さ。さらに五臓六腑を自らの手でかき出し、それを羽柴軍に向かい投げつけたとのこと。さらに家臣に介錯させ、家臣が火薬に火をつけ天守閣ごと勝家をも爆破して、首が渡らないようにしたーーー。

こんな光景が目の前で繰り広げられたら、羽柴軍も、じっと沈黙せざるを得なかったというのは、現代人にもよくわかる気がします。

以上、柴田勝家とお市の方が北ノ庄城で最期を迎えた場についてでした。死に様が後の世に残る一つの典型を見るような気がします。

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