歴史大好き

歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

戦国時代

秀吉が関白になった意味は?秀吉の「天皇のご落胤説」って?

秀吉、関白

豊臣秀吉は1585年に関白に就任。百姓に生まれたとされる秀吉が関白になれた経緯は斬新で、征夷大将軍でなく関白というのも興味深いテーマです。さらに信憑性はともかく秀吉が天皇のご落胤だったとする説も当時、記されました。また秀吉の出自と当時の「非人」との関係も気になります。

下層階級の秀吉が関白に!

秀吉が「関白」に就任したのは1585年のことでした。

本能寺の変で信長が亡くなり、続く山崎の戦いで明智光秀が滅んだのが1582年。秀吉による天下統一が1590年。この間に何があったでしょうか。

まず1582年の清須会議における織田家の継承問題で秀吉が指導権を握り、翌年には柴田勝家を「賤ケ岳の戦い」で討って、秀吉優位の基盤を固めます。

さらに翌年、1584年には小牧長久手の戦いがあります。その経過で9月末には家康が秀吉のもとを訪れ、裏では秀吉がさんざん家康に貢物をして、持ち上げながら、結局、家康が秀吉のもとに下ったといういわば「儀式」が行われました。要するに秀吉と家康が講和して「秀吉がトップ」の図式を周囲に知らしめたことになります。

そして上記のように関白就任が1985年ですが、一気に関白になったのではありません。
1584年、まだ戦いの最中でしたが、10月に秀吉は「従五位下左近衛権少将」の官位を得ています。さらに11月「従三位権大納言」となり、翌1585年の3月には「正二位内大臣」に叙任されています。

つまり「百姓の家に生まれた」(とされる)秀吉は、徐々に高い官職を得て織田家にも劣らない状態にまでなっていたということ。

生まれについて厳密なことは分からないわけですが、一般に秀吉は、百姓の父・木下弥右衛門と母・なかの子供として、現在の名古屋市の中村区に生まれたとされています。秀吉の生まれた階層については、百姓というよりやむを得ず乞食村で暮らしていたという詳しい書もあります。

『河原ノ者・非人・秀吉』服部英雄著

河原ノ者・非人・秀吉

詳細は後述します。いずれ秀吉が百姓であったというより、じつはもっと低い被差別階級だったのではないかという説。

関白相論

1585年8月、低い身分の生まれだった秀吉は「近衛前久の猶子」として、つまり藤原秀吉として、関白宣下を受けました。つまりこの時点で関白は藤原氏が任ぜられるという形は崩れていない、と言えます。

しかし、当時なぜ公家たちは、初めての「武家からの関白就任」を受け入れたのでしょうか。

当時、公家では二条昭実(にじょうあきざね)と近衛信尹(このえのぶただ)との間で関白をめぐって揉めていました(関白相論)。そのトラブルの只中に、秀吉は一時的であるかのようにして「藤原秀吉」として(信尹の父の養子であるとして)関白に就任しました。語弊はありますが、争いのさなかに漁夫の利のように、関白が秀吉のものになったというか、してしまったというかーー

48歳の秀吉でした。ちなみに関白とは天皇の言葉をあずかり(関)もうす(白)こと。 翌年1586年に秀吉は「豊臣」の姓を賜り、さらに「太政大臣」に就任しています。

すなわち藤原氏でも五摂家でもない関白が誕生し、「藤原氏の関白」も実際のところ中断してしまいました。藤原家の関白自体はその後、家康によって復活することになりますがーー。

1591年に秀吉は関白職を秀次に譲り、関白を豊臣氏で世襲していくという姿勢を示しています。秀吉は「太閤」となりこの年54歳。さらに関白を譲っても事実上は秀吉の治世であり、この時「関白」は征夷大将軍に代わって武家社会のトップとなったともいえます。

なぜ征夷大将軍でなく関白に?

秀吉は関白になったけれど、あらためて何故、征夷大将軍でなく関白なのでしょうか。

答えはシンプルで、関白のほうが位が上になるから、とも言えます。江戸幕府を開いた家康、2代将軍の徳川秀忠、3代の・・と見ていくことに慣れた現代人感覚としては、「将軍」が重要というイメージがあります。しかし、関白こそが公家で最も高い位でした。江戸時代にはまた将軍のほうが事実上、上になっていくわけですが。これが答の一つです。

もう一つ考えられる理由は、征夷大将軍になるにはじつはもっと家柄が必要であったことーー。 「征夷大将軍になれなかったので関白になった」と解説するのは徳川家の立場であり(林羅山ら)、征夷大将軍のほうが関白よりも上だと言いたい江戸幕府の思惑が感じられます。

もともと、武家社会の「将軍」と、公家社会の「関白」を単純に比較することは軽率でしょう。しかし公家に近づいて任官を繰り返し、権力を手に収めていった秀吉と、その結果、関係がもつれていた公家同士の葛藤をうまく収集して自らは将軍に就いた家康・・・と言うこともできそうです。

いずれ諸説あり、結論的に言えることではありません。

確かなことは、出生の真相は分からないとしても、低い身分に生まれことにコンプレックスを抱えていた秀吉が、現実的に「低くない身分」を手に入れたことーー。低くないどころか最高位の関白太政大臣までたどり着きました。

気持ちの上でさらに上を夢見て聚楽第を築いたか否かは不明ながら、秀吉は刀狩りを行い、太閤検地を行い、天下統一の頂点に君臨するのです。

秀吉、天皇のご落胤説

ところで上述のご落胤説について。秀吉がじつは天皇から血筋を受けた男児だったという説がある、というよりも説がありました。

結論からすると、史実でないことは確かです。

父親は推定でせいぜい足軽、母親は秀吉が天下をとってから大政所として君臨しますが、もともと百姓の妻だったことはよく知られています。そして、当時も知られていました。したがって秀吉が皇族の血統であると主張しても、かなり無理があるのですが、そこは秀吉。

天正年間(1573〜1591)に秀吉の事柄を述べた『天正記』のなかの「関白任官記」には、秀吉の母(大政所)が幼いうちに上洛し、成長後の3年間禁裏に上がり、尾張に帰ってから殿下(秀吉)を生んだと書かれています。

『天正記』を記したのは、大村由己(おおむら ゆうこ)、念の為男性、僧です。 秀吉の三木城攻めのころ、秀吉の祐筆となった人物。ただし『天正記』のなかでも「関白任官記」は信憑性がないとされています。

「関白任官記」は秀吉が自分に都合のいいように書かせたといえる記述で、秀吉に限らず他にも色々なバージョンの「天皇の子」説があります。 (参考:天皇家謎の御落胤伝説 歴史読本編集部)

秀吉にしてみると母親は生きているので、亡くなった父親のことを創作(?)して実は父親は天皇だと、言いたかったということでしょう。ウソもつき続けると、本当になる? …かどうかは、歴史がノーと言ったようですが。

秀吉は「非人」だったのか?父の弥右衛門は架空の人物?

この件については、『河原ノ者・非人・秀吉』(服部英雄著)の中身に尽きますのでこの本のご紹介になります。

『河原ノ者・非人・秀吉』(服部英雄著)

著者の服部英雄氏は九州大学の名誉教授。東大の文学部、さらに人文科学研究科の修士を終了した後、東大や九州大学で教鞭をとっていました。著書の『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社)では2012年に 第66回毎日出版文化賞受賞を得ました。2012年4月発行、713ページに及ぶボリューム。

本書の構成は以下の2部構成となります。

第一部・河原ノ者・非人
第二部・豊臣秀吉

第一部では中世に賤視された人々を歴史学的に再検討するとのこと。被差別の大衆が、人々の生活に密着した業務を担当していたことを、明らかにするとのことで広く日本の歴史全般に関わる蔑視され差別されてきた人々の実態を考察しています。

さらに第二部はタイトル通り、秀吉についてなのですが、特に秀吉自身については以下の章がメインとなっています。第二部のなかの・・

第9章 少年期秀吉の環境と清洲城下・繁栄と乞食町
第10章 秀吉の出自

第11章の秀頼の父についてもたいへん興味深いです。はっきりと「秀吉の子ではない」としているのですが、この件はまた別項目で。ここでは上の2つの章について・・

専門書を、つまみ食いのように不適切な言葉で引用するのは、失礼なことと思います。なので以下は、本書に書かれていたというより、読者の一人として、弊サイトがこの書籍についてメモした、という意味で記させていただきます。

***

・父とされる木下弥右衛門は架空の人物であり父はいない。


・生誕地は清須とする説があり、清須には乞食村があった。


・ストリートチルドエレンであった秀吉は乞食村に入るしかなかった。


・秀吉は針売りの仕事をしており、針売りは「賤」の対象となった。


・妻の「寧」は連雀商人の家の出であり、秀吉は釣り合いがとれなかった。


・秀吉は、猿のように口で栗の皮を剥いて食べる猿真似をして猿芸でも収入を得て暮らしていた。


・フロイスの「日本史」でも秀吉は身分の低い出自なので、騎行の際にも秀吉だけ馬に乗れなかった。


・フロイスは秀吉の手に6本の指があると記した。


・信長は秀吉の6本指のことから秀吉を「6つ目」と呼んだ。


・秀吉には、弟の秀長や姉の日秀、妹の旭姫以外にも、母なかの結婚歴が何度もあったために、実際には弟妹がもっとたくさんいた。しかし、秀吉が関白になってから弟と名乗って伊勢から現れた男のことは、首を切り、道路に串刺しで晒した。  (等々)

秀吉

服部氏の専門性ゆえでしょうか。たとえば大河ドラマの監修などに携わる歴史学者の方に比べると、世間ではあまり知られていないように思われます。本書の前半の、差別に関する壮大な取り組みとともに、大変心の惹かれた書となりました。

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