歴史大好き

歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

戦国時代

豊臣秀頼はやっぱり秀吉の子ではない!

豊臣秀吉が57歳で授かったとされる豊臣秀頼は大阪の陣で母の淀殿や大野治長らとともに自害しました。体格も並外れた巨漢だった秀頼が亡くなり、男児の国松も処刑され、豊臣家は滅亡するのですが、そもそも秀頼は、母は茶々(淀殿)であるが父親は秀吉ではなかった、という説について考察します。

豊臣秀頼

そもそも秀吉には実子がいない

豊臣秀頼は秀吉の子供ではないーーというテーマは、意外とスルーされがち、と言っては不謹慎でしょうか。誰もが目にする(か否かはともかく)あのウィキペディアでは、「太閤・豊臣秀吉の三男」とされています。

三男というのは、秀吉の最初の息子とされ、まだ秀吉が長浜城主だったころに生まれたという石松丸が長男。そして1589年、秀吉が53歳の時に淀君と秀吉の間に劇的に誕生し、しかし病弱で1591年には亡くなった鶴松が次男。

そして1593年生まれの秀頼が、三男とされているわけです。

しかし、そもそも豊臣秀吉から子供は生まれていない、否、秀吉は女性に子供を孕ませてはない、ということを述べているのが『河原ノ者・非人・秀吉』(服部英雄著)です。

『河原ノ者・非人・秀吉』(服部英雄著)

参照:秀吉は「非人」だったのか?父の弥右衛門は架空の人物

本書では「秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロである」と明言されています。「秀吉の場合、男性に欠陥があった、そう考えてほぼ間違いない」とも。

秀吉が女性と関係を持ったその数は書物にも残されており、妻、妾以外にも女性は多数いて、ある時点だけを切り取っても、たとえば側室が16名はいたと記されていたり(「伊達家世臣家譜」)、ともかく関係した女性は、通算すると気が遠くなるほど多数存在したはずです。

ちなみにキリスト教精神を背景に持つルイス・フロイスなどは、多妻制度を嫌悪していました。フロイスが、侍女というものと側室との違いを理解していなかった可能性はあるとしても、フロイスによると秀吉の獣欲のために、毎日のように多数の女性を大阪城に連れてこさせた、とされています。

それはともかくとして、秀吉は多くの女性と関係を持つ環境にいながら52歳まで子供を持つことなく過ごしてきて、53歳にして突然、淀君との間にだけ子供が生まれたーーなどということがあるでしょうか? という話です。

上記の秀吉の「長男」とされる石松丸については、存在自体が疑問視され、まして実子であったかというとやはり疑問です。

秀吉の「男性」の能力

秀吉の実子がなかったことについて、「男性」に問題があったと推測する根拠の一つは、側室たちが他の男性との間には子供をもうけていたケースがあること。その代表例は、松の丸殿こと京極龍子で、他にも秀吉の側室という立場から解放されて他に嫁入りすると子供を産んだ女性、というのが複数確認されています。

つまり秀吉が無精子症なのであって、100人ほどいたかもしれない女性たちは、相手によっては子供を産めたーー。秀吉の無精子症は、経年で解決したとか薬で治癒できたとか、そういった類のものでないことは現代の医学から推測して明らかだという話。

秀吉自身も、さすがにそれは分かっていたのではないでしょうか。

秀頼の父は大野治長ではないかという説は古くからありました。秀頼の父が誰かということ、これは重要ではありますがとりあえず置いておいて、まず母親たる茶々(淀君)について、考えてみましょう。

茶々がなぜ秀吉の側室になることを受け入れたかーーここに触れるとまたテーマが大きくなりますが、一つの仮説として、上記の『河原ノ者・非人・秀吉』から取り上げてみたいと思います。

すなわち茶々は、自分が秀吉の子供を産む女性という特別な使命(と権利)を得て(約束されて?)秀吉の側室になったのではないかということです。茶々にとって、信長の妹の娘である自分の血筋を残すことは、織田家の血筋を残すこと。浅井家の血筋を残す意図がどれほどあったかは不明としても、です。

さらに、茶々からすると、生物的な父親が秀吉でなくても「秀吉の子供」として生まれる我が子は、我がもの顔の権力者の庇護を受け、大切に大切に育てられ、さらに関白などの権勢を望むままに相続していくことが約束されているようなもの・・。と言っては、戦国の世に、お気楽な予測かもしれませんが、そんな側面があったことも否定できない気がします。

*念のため著者、服部英雄氏の名誉のため付言させていただきますと『河原ノ者・非人・秀吉』では、こういう口語的な表現はありません。このページはあくまでも読者の一人が、自分がそう受け止めたというメモとしてーー。

茶々については、福田千鶴著『淀殿 – われ太閤の妻となりて』 では、茶々が秀吉の目を盗んで密通することなど不可とされ、その観点の見解もこれまでの研究者で多かったようです。しかし、本書では茶々が秀吉公認で、秀吉でない人の子を産む「非配偶者間受精」の道が示されます。

秀吉にとっては、茶々(淀殿)によって、織田の血筋かつ豊臣の血筋を産むことになる「秀吉の子供」の誕生は、願ってもない道筋だったと言えそうです。

では二度に渡る「秀吉の子供の誕生」は、具体的にどんな経緯だったでしょうか。

鶴松の誕生時の受胎想定日

鶴松の誕生は上記のように1589年のことで、日付は5月27日。その受胎想定日を出すと、前年1586年の8月27日ころとなります(『河原ノ者・非人・秀吉』613ページ)。前後の時期を含めて、このときに秀吉は京都、大阪にいたので、時期的には受胎が不可能ではない、となります。

一方でそもそもタイミングからして受胎が不可能なのは、次の拾(秀頼)でしたが、後述。

民俗事例で「参籠(さんろう)」というものがありました。参籠の専門的な解説は省くとして、どうしても子供が生まれない夫婦に、いよいよの時には子を授かる仕組みが民間に作られていたということ。そこには宗教的陶酔を伴い、神仏と一体となることが必要だった・・

鶴松の場合、「通夜参籠」と同じ装置が聚楽第か大阪城に作られ、宗教的陶酔を作り出すプロとして僧侶、または陰陽師が関与し、秀吉が承知したうえで秀吉以外の男性の子種で、子供を授かった・・・

ただし、父親に人格があってはならない。親権者が登場してはならない。源氏物語で光源氏が闇の中で末摘花と契を交わし、相手の女性の顔を知らなかったように、茶々が承知した上で互いに顔を知ることなく第三者の男性と性交渉することは可能だった・・・

ところで、鶴松が生まれる前に、2月ころいわゆる「落書き事件」があり、疑われた者たちへ、秀吉による残虐な処刑が行われました。簡単に言うと茶々に生まれてくる子供のことが、何者かにより揶揄された(らしい)という事件。

一方で誕生の直前になると、その空気を払拭するかのように秀吉は、公家などに金配りを行い、返礼として誕生後には沢山のお祝いの金品が届けられ、送ったり送られたりの流れが出来上がりました。

そんな「目出度さ」の中で、生まれた子が誰の子かなどという詮索よりも、50過ぎの秀吉に男児が授かったという奇跡的な喜びが固定されていった・・というのですから、それはそうかもしれない、というのが正直な感想です。

つまり明確な秀吉の意図で、茶々も了解して、非配偶者間受精により鶴松が誕生したということ。

しかし鶴松が生まれてから、母として、養子も含めての豊臣家のファミリーにおいて優位な「母親」の役割はあくまでも寧(北政所)でした。茶々は、鶴松が一歳にならぬうちから寧を介して小田原行きを命じられ、鶴松の唯一の母とはみなされいなかったーーとは『河原ノ者・非人・秀吉』の見解です。

秀頼の誕生時の受胎想定日(秀吉には不可)

鶴松の時には、誕生後の祝賀記事もたくさん残されており、祝賀ムードが作られたけれど、意外にも秀頼の誕生時には、それがなかったとされます。何故でしょう。

結論として秀頼(拾)の誕生は、茶々によるほぼ独断、または秀吉の許可が完全ではなかったなかで、茶々の強い意志による結果・・という説です。

まず茶々が、秀吉のいる九州の拠点、名護屋城に赴いていないから、二人による受胎はタイミングから不可能ということ。これについては、福田千鶴さんや小和田哲男さんは、茶々が名護屋に行った説を採用しているそうです。

ちなみに鶴松同様に秀頼の誕生、1593年8月3日に関する受胎想定日を計算すると、1592年11月4日ころとなります。秀吉が大坂を出たのが1592年10月1日、博多に着いたのが10月30日。受胎想定日の前後15日くらいを考えてもその時期に秀吉と茶々の同衾はないから、秀吉の実子として秀頼が生まれるのは難しい、という話になります。

(何やらこういうことを、ツラツラ述べていると、とても余計なお世話という気もするのです。著者の服部氏もそんな躊躇いみたいなものについて配慮している気配。しかし天下を統一した秀吉の実子に関する、つまり重大テーマが意外と議論されていないかなという、個人的には気になってきたテーマということで、ご了解ください)

『河原ノ者・非人・秀吉』では、秀吉が、大坂から受け取った茶々懐妊の報せと、その返事について解説しています。秀吉の返事は、たとえ秀吉の子でないとしても認知する、(二の丸と当時呼ばれていた)茶々の子供として、大事に育てようというもの。

しかし、意外なほど秀吉は喜んでいない様子で、鶴松のときのように実際、喜びの行事は行われなかった模様。一方で大坂城にて淀殿に付いていた女房たちが次々と処刑され、関わったとされる僧侶も、陰陽師も死刑となりました。フロイスによると、宮殿の女たちの間で綱紀が緩み、各々勝手なことを行い、それが秀吉の怒りを買ったのだけれど、秀吉は茶々を断罪するわけにいかず、女たち、陰陽師(唱門師・しょうもじ)、僧侶らを追求した・・とのこと。

下手なことは言えない書けない時代に、読まれる心配のない、日本人に分からない言語にてフロイスは、事実を書き残したというのも面白いことです。

当時、事件として問題だったのは、魔術を使う者(=唱門師?)が、金の延べ棒を10本、大阪城の女性から巻き上げたこと、と伝わっています。しかし金の延べ棒を持てるほどの女性は、淀殿のごく近くにいた女性か、もしくは淀殿本人かー。

金の延べ棒10本にも値するほどの危険な行為とは、子を授かる祈祷、もしくは子を授かるに関わる諸々のことかー。

いずれにしても、陰陽師というだけで皆が弾圧されるようになり、その契機は大坂城内の出来事にあったということ。

喜んでいないようにも見える秀吉であったけれど、もし、拾(ひろい)の誕生を認めなかったら、鶴松のことも同じ論理で認めないことになってしまうので、秀吉は、表面上は茶々に対しては穏やかに対応したーー

小説ではありませんが、これはじつに興味深い。まさに 「事実は小説より奇なり」です。

さて、大野治長の立場とか、関白を譲られた秀次の、ついには一族が一人残らず処刑されてしまう展開など、テーマはまだまだ続きますが、また別項で・・

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