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歴史の一コマをわかりやすく・・とは言え、歴史は書き換えられる可能性があり謎に満ちていることが魅力と思っています。

城郭 戦国時代

安土城、初めての天守閣?の謎が魅力的な城

安土城、初めての天守閣?の謎が魅力的な城

安土城は、信長が築いた山城で現在では城址となり特別史跡となった意義ある城。当時「天主」と呼んだ信長の意向の建造物により歴代の「天守閣」が生まれることになりました。本能寺の変の後に焼失し廃城となりましたが、指定面積のうち一部しか調査されていない貴重な史跡となっています。

信長ならではの、「天主」意向

今ではお城には「天守閣」があるもの、と思ってしまいます。個人的には、というべきかーー。しかし天守閣にも始まりがあったのです、という話で、やはり初めて天守閣を築いたのは織田信長でした。

当時は『天主』と呼ばれ、安土城のその高さはおよそ32メートルとのこと。32メートルくらいの建物を現代で想定するとビルの7階とか8階とか、居住空間のマンションなどでは10階くらいになりそうです。当時としても地下1階、地上7階という設計だったもよう。

たとえば標高200メートルほどの山の上に建てられたビルの8階から、周囲を見渡すとどんな景観が広がるでしょうか。しかも琵琶湖の辺りーー。

もし天守閣から信長が四方を見渡している姿を想像したら、まさに「信長の天下」という演出にも最上級のものだったことでしょう。天下布武そのもの・・

現在では、地形が変わっていますが当時はまさに琵琶湖に面していました。
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦

先日の小谷城と長浜城、つまり浅井長政と秀吉とも近距離に見えますし、その間にはひこにゃんでお馴染みの彦根城もあります。この辺りの地理に疎いのですが、あらためて琵琶湖が水運に果たした役割の大きさに感心します。

地上の移動に比べると、大津市辺りから京都への最短距離の短いことを考え合わせると、戦国のあの時代に、琵琶湖の水運を用いた戦略はじつに巧みだったことでしょう。

位置的にもこの地は、若狭や越前から京に向かうにはまさに要衝となります。

安土城の築城については、まだまだ未解明の部分が多く、今後の研究も楽しみです。毎日の作業に3000人くらいの労力が動員されていた様子。総奉行は丹羽長秀でしたが、実際に大工の頭として活躍したのは岡部又右衛門。岡部又右衛門は宮大工で、1575年の熱田神宮造営にも参加していました。

安土城の築城は、1576年の1月に始まり1579年5月には信長が住み始めたと考えられています。しかし信長にとっては1582年の本能寺の変が最期となり、城主としては3年ほどの惜しい期間となります。しかも本丸の消失は1579年?という説も。

岡部又右衛門の活躍を描いた『火天の城』(山本兼一著)は、2009年には映画化されました。主役は西田敏行さん。



絢爛豪華な本丸の焼失

安土城の天守は「5重7階」だったとされ、絢爛豪華な姿の焼失が今更ながら惜しまれます。


信長が居住してからの安土城は、どうなったでしょうか。

ルイス・フロイスの『日本史』によると、1579年ころ、落雷により本丸が焼失したとされます。そうだとしたら、一年も経たずに焼け落ちたのでしょうか。しかしルイス・フロイスの記述だけでは時系列が定かではありません。そこで言う「本丸」の範囲も・・

いずれ本能寺の変のころ、蒲生賢秀が安土城の留守を預かっていました。しかし信長の訃報に接して、信長の身内を自らの日野城に移動させ、蒲生賢秀自身も安土城を出ました。

その後、本能寺の変で光秀を支えて戦った明智秀満(明智光秀の親族)が、安土城の守備につきました。しかし早々に明智光秀は山崎の戦いで敗れ、その報に接した秀満は、安土城を出て山崎城に向かいます。

明智秀満はその後、光秀の妻子も自分の妻も殺害したうえで自害しています。その秀満が、安土城を出たころに、原因は諸説あるけれど安土城のおもに本丸は焼失したとされています。

焼失の原因としては、複数の説があってよく分かりません。

・落雷説。
・秀満が放火してから脱出したという説。
・その後安土城に入った織田信雄が明智秀満の残党狩りで街を放火した時に延焼したという説。
・野盗が侵入して放火したという説。

しかし本丸を失っても、城全体としては二の丸などでかなりの機能を保っていたと考えられます。廃城されたのは1585年で、豊臣秀次の八幡山城築城が契機でした。

現在山の中腹にある摠見寺(そうけんじ)には、安土城当時の三重塔や仁王門が現存しており、かつての大河ドラマ『江〜姫たちの戦国』では、江が1579年ころ、完成後の美しい安土城を訪ね、物語の話としては信長と生々しい言葉を交わししていました。

さらに「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家とお市の方が自害したあとに浅井三姉妹の茶々、初、江は秀吉側に預けられ、この安土城を訪ねることになりますが、この時、信長は亡き人であり、信長の築いた天守閣もなく、実際には摠見寺(そうけんじ)等、別の館を使ったものと思われます。

解明の待たれる貴重史跡

10年くらい前に読んだ『日本名城の旅』(すでに手元にありません)では、安土城を築く安土山は、信長がもう一つの候補地だった観音寺山よりも優れていたために選んだ、と記されていました。

そして当時は、「奈良の多聞城の天守が四層であったことに刺激されて」信長が7層の天守閣を築いたーーとの解説でした。

    ***

正直、10年ほど前のその論が否定されたのか否か、確認できません。
しかし現在は、安土城の天守が「初めての天守閣」と認識されているようです。

多聞城(多聞山城)は、松永久秀の築いた城で、2020年の『麒麟がくる』では吉田鋼太郎さんが演じており、これまでの松永久秀よりも詳しく描かれるもようです。

いずれにしても安土城は、「最初の天守」という意味でも重大な城で、現在も研究が重ねられています。さらに天守の「復元」を巡っても、多様な案があり、今後も目を離せません。

安土城の大規模な調査として、滋賀県が1989〜2009年まで20年かけて発掘調査を実施しましたが、実際に調査できたのは史跡指定面積のまだ2割ほどになります。今後の調査から未知のデータがさらに明らかになることでしょう。

安土城を知るには、【安土城天主 信長の館】と【滋賀県立安土城考古博物館】を訪ねるのが良いでしょう。というか、行ったことがありません。ぜひ、訪ねてみたい史跡です。


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