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-戦国時代
石田三成といえば、秀吉の忠実な家臣にして関ヶ原での敗軍の将・・というのが誰もが思い浮かべる人物像でしょう。一方で茶々こと淀殿は、秀吉の側室となり、鶴松を産み、拾こと秀頼を産み(異説があるとしても)、秀 …
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-戦国時代
秀吉の後継者として関白に任ぜられた豊臣秀次は、最後は秀吉によって自害に追い込まれ、その妻や娘たちまで一族がこぞって殺害されました。その契機は、秀吉に思いがけず拾(ひろい)、のちの秀頼という後継者が生ま …
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-戦国時代
豊臣秀吉が57歳で授かったとされる豊臣秀頼は大阪の陣で母の淀殿や大野治長らとともに自害しました。体格も並外れた巨漢だった秀頼が亡くなり、男児の国松も処刑され、豊臣家は滅亡するのですが、そもそも秀頼は、 …
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-戦国時代
豊臣秀吉は1585年に関白に就任。百姓に生まれたとされる秀吉が関白になれた経緯は斬新で、征夷大将軍でなく関白というのも興味深いテーマです。さらに信憑性はともかく秀吉が天皇のご落胤だったとする説も当時、 …
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-戦国時代
本能寺の変で信長が討たれた直後、秀吉が軍を率いて備中高松城から山崎まで、瞬く間に引き返しました。中国大返しと呼ばれることになったこの大移動は実際、どれくらい現実的に可能なのでしょうか。さらに大返しの前 …
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-戦国時代
森蘭丸(もりらんまる)は織田信長の「小姓」の一人。女性のように美しかったとされ、そのように描かれる蘭丸ですが、名前は「乱」すなわち森乱丸、もしくは森成利(もりなりとし)が妥当でしょう。ことさら信長の寵 …
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-戦国時代
織田信長による馬揃えは、1581年の『京都御馬揃え』(きょうとおうまぞろえ)などと呼ばれ、大規模な軍事パレードとして歴史に残っています。信長の目指した「天下布武」を世に誇示した行事で、当時の正親町(お …
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彦根城は、石田三成に代わって佐和山城に入った井伊直政が城を好まなかったことから、1603年、直政の没後に天下普請で築き始めた名城。彦根藩32万石として江戸時代の藩政を担ってきました。姫路城との相違点を …
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安土城は、信長が築いた山城で現在では城址となり特別史跡となった意義ある城。当時「天主」と呼んだ信長の意向の建造物により歴代の「天守閣」が生まれることになりました。本能寺の変の後に焼失し廃城となりました …